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- 害虫駆除の思想を説いた市井の昆虫博士 名和 靖
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かつて日本では農作物の害虫被害は自然の“怒り”と考えられていた。
その前では田圃(でんぽ)にお札を立て、神に頼るしかなかった時代、科学的知識による害虫駆除に生涯をかけたのが、市井(しせい)の昆虫博士・名和靖(なわ やすし)である。
ギフチョウの発見で知られる名和は、ほとんど専門教育を受けていない。
だが、私財を投じて昆虫研究所を設立、ひたすら“体験昆虫学”を説き、戦前の日本では広くその名を知られていた。
ファーブルとほぼ同じ頃、自らを「無学」と称した名和の真髄は、「アカデミズム、何するものぞ」の気概だった。

名和の著書に『薔薇之一株 昆蟲世界(ばらのひとかぶ こんちゅうせかい)』がある。若かりし頃、祖父が丹精こめて育てたバラに群がる昆虫の生態を観察した記録である。
30ページ余りの小著だが、美しく花を咲かせたバラに引き寄せられる昆虫たちの凄まじい生存競争の世界が、詳細な写生図とともに描かれている。
バラの大敵ミドリアブラムシ、そのミドリアブラムシの甘い汁に集まるクマアリの群れ、そしてミドリアブラムシを餌食にするクサカゲロウ、ヒラタアブ、ヤドリバチ……バラにとっての敵と味方が繰り広げる生死を賭けた戦い。それでいて絶妙にバランスを保つ自然の姿を活写した好著である。
時の理学博士、箕作佳吉(みつくり かきち)は序文に寄せて、こう書いた。
「舞台は薔薇の一株にして、茲(ここ)に現れ出でる者に、主あり、従あり、敵役あり、修羅場ありて、又其敵討(かたきう)ちあり……吾人の眼前には幾多の活劇が昼夜を別たず現行せらるゝことを了解せば、すなわち自然界に就きて一大事実を学びたるに止まらずして……」
箕作はこの一編を「浄瑠璃の脚本に近い」として「此世(このよ)に處(しょ)するに當(あた)り大に得る所のものあらんとす」と人間の生き方になぞらえて絶賛した。
名和がこの本で指摘したのは、昆虫を徹底的に観察して、生態や習性を調べる大切さである。昆虫の害をただ恐れるのではなく、科学的な知識によって、その虫が害虫か益虫かを見分ける。害虫は駆除し、益虫は保護する。
名和は、この考え方を「昆虫思想」と呼び、その普及に生涯を賭けた。

幕末は安政4(1857)年、美濃国重里(しげさと)村(現在の岐阜県瑞穂市)に、裕福な庄屋の息子として生まれる。豊かな自然の中で育った名和は、少年の頃から昆虫に興味を持ち、山野での昆虫採集や標本づくりに夢中になった。
明治11(1878)年、21歳で岐阜県農事講習所(後の岐阜県農学校)に入学。この農事講習所は地方の一農学校に過ぎなかったが、マサチューセッツ農科大学を出た植物学者の堀誠太郎が校長を務め、西洋科学を踏まえた農学を教育していた。
名和は堀から学問や研究に対する姿勢など多くを学んだ。この講習所時代、『薔薇之一株 昆蟲世界』の経験をする。岐阜県郡上郡の山中で昆虫採集をしていてギフチョウを発見したのもこの時期だ。
農事講習所での名和にこんな逸話がある。寄宿舎生活を送っていた彼は、部屋でもさまざまな昆虫を飼育したが、ある時、夜中に毛虫が這い出し、友人の寝床に入り込んで大騒ぎになった。
この友人は「名和との同室は嫌だ」と舎監にねじ込んだ。後に名和は「寝室へ蚤、蚊、蝿などあたりまえ、不意に毛蟲が来てはたまらぬ」と他人事のように言っているが、やはりどこか変わったところがあった。
農事講習所を卒業後、尋常師範学校などで教壇に立つかたわら、害虫研究に取り組む。29歳の時、半年ほど東京帝国大学で動物学を学ぶが、専門教育を受けたのはこの時だけである。
この間、昆虫採集には大いに異能ぶりを発揮する。これは昆虫採集にまつわるエピソード。
夏の夜、昼間は姿を見せない珍しい蛾や甲虫類を採集するため提灯を手に、金華山の山中深く分け入った。清酒に糖蜜を混ぜドロドロに煮詰めた液汁を木の幹に塗り付けておくと、夜になってその強い香りに誘われた虫が群がってくる。これを一網打尽にする計画だった。
ところが、夜な夜な森の中で動く黒い人影に「天狗だ!」と村が大騒ぎし、警察沙汰になったというのだ。そうして採集した貴重な昆虫は標本にされ、内国勧業博覧会やアメリカの世界博覧会に出品、高い評価を得ている。
名和が大事にしたのは「現場の視点」である。実際に虫に触れ「観察」「写生」することで、その“正体”を見極める。虫を「写生」するとは、自然を写実的に見ることであり、そうやって千変万化する虫の素性を知れば弱点が分かる。被害にも手を打てるとする発想だ。名和流の“体験昆虫学”の出発点である。
だが、明治の半ば、この考え方はなかなか受け入れられない。
名和が周辺の農村に出向き、自身の「昆虫思想」を説いて回るのは、30歳を過ぎてからである。この頃、害虫予防について講演した記録が残されている。愛知県豊橋近郊で、ウンカ(注1)による稲作被害を見た名和は「早く駆除しないと大変だ」と農民に語りかけた。農民の反応はこうだ。以下、そのやり取り--。
「いや、おかげさまでようよう昨日、秋葉山のお札を受けて田の中に立てましたから、まあ、安心を致します」
「ああそうか、しかしながらお札だけでは本当の駆除ができぬから、それへもっていってもう一つ人業(ひとわざ)でやったならば必ず効があるが、やったらどうであるか」
「(こういう虫は前にも出て)ほとんど稲がなくなってしまったぐらいでござりますが、お札を立てたところはよろしいということでござりましたから、なにぶんこれでお助けをこうむるつもりだ」
当時、日本では虫は自然発生するものとされていた。そもそも「害虫」の観念がないから、害を撒(ま)き散らす虫を取り除くという考えも浮かばない。
だが、名和は「人業」で害虫を駆除できると考え、自分で考案した円形捕虫器を紹介している。捕虫網の内側に返しがあり、これで稲穂を軽く叩けばいくらでもウンカを捕獲でき、網に入ったウンカは逃げられない仕掛けだった。
ただ、名和は土着の自然観を否定したわけではない。虫除(よ)け札を「滑稽(こっけい)も此処(ここ)に至りて極まれり」とし、虫送り(注2)を「甚(はなは)だ嘆かわしき悪習」と批判しながらも、神頼みの迷信を排除したら、農民の反発があることを理解していた。
既存の風習を取り込みつつ、害虫を人間の力で排除するべき対象と見なす。名和の自然観で、ここに専門知識を振りかざすだけではない名和の本領があった。

明治29(1896)年、私財を投げ打って、岐阜市内に日本初の民間による害虫研究所、名和昆虫研究所を設立する。38歳の時だ。これを機に教員を辞し、研究所を拠点に害虫研究と害虫駆除の普及に生活のすべてを注ぐ。
名和が自費で昆虫の研究機関を設立、害虫駆除の啓蒙に腐心したのは、時代背景と無縁ではなかった。
当時、明治政府は、西洋科学の一分野として、欧米で確立していた応用昆虫学の導入に力を入れていた。農村近代化の一環だったが、それは一方で旧来の「自然と人間の関係」を改め、人々と害虫の関わりを見直すことでもあった。
日ごろ、名和は「生来の人真似(ひとまね)嫌いで独創を好んだ」と語っている。その「独創」も国家の幸福や利益にならないといけない。そのために害虫被害の前に立ち尽くし、その場しのぎの対処に明け暮れる受け身の姿勢をやめ、害虫を「人為的に駆除すべきもの」と捉えて、積極的に自然に向かうことを説いた。
先進国を目標に近代国家をめざした明治という時代が、名和のような市井の昆虫博士を必要としたのである。そして、名和はその要請にこたえた。
(注1)ウンカ(浮塵子): 稲の害虫となる体長5ミリメートル程の小昆虫
(注2)虫送り: タイマツをたいて鐘や太鼓を打ち鳴らし、村から害虫を送り出す風習
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