マツダはなぜ、よみがえったのか?

宮本 喜一 (著) 日経BP社
外資の傘下に入り存在意義を失いかけたマツダが、自社のブランドの再構築を行い、グループの中での地位を向上させていく再生物語。
サマリー
2003年、マツダがよみがえった。一度はどん底に落ち込み、フォードに資本支援を仰ぎ経営の実権を明け渡し、新車開発すらままならなかったマツダが、なぜここにきて鮮やかに復活できたのか?
話は1996年まで遡る。4月12日、フォードがマツダの経営権を握るとのニュースが流れ、1996年6月、マツダの指揮をとるために、フォード出身のヘンリー・ウォレスが正式にマツダの社長に就任した。
4月の時点では、マツダ同様フォードにマツダ復活の具体策があったわけではない。ただ両者は共通して、マツダの経営を再建するために一刻も早く手を打たねばという危機意識があった。
そしてマツダは復活をかけ、長い“トンネル”をくぐることになる。トンネルは3本存在したが、マツダはそれらをすべてくぐり抜け、立ち直ったのだ
1本目のトンネルは1996年4月から1997年11月を指す。フォードから送り込まれたウォレス、リーチたち経営陣の最優先課題は、とにかくマツダの大火事=赤字を消すことにあった。
まず、あるゆる経費を削減し、不要不急の施設や保有株式など資産の売却を進め、徹底的なスリム化を図り、財務の健全化を目指した。生産面でも可能な限りコストダウンを実行した。
とりわけ厳しい目が注がれたのがクルマの開発部門だった。マツダは創業以来、技術開発志向が非常に強く、開発部門に資金を与えることには伝統的に寛容な企業だった。しかしフォードは違った。
会社全体が大きな赤字を抱えてあえいでいるとき、開発部門に対して新たな技術開発のための資金が与えられる余裕はない。マツダの開発エンジニアが要求されているのは、いかに低いコストで短期間のうちに「売れる新車」を開発できるか、その一点に尽きた。
同時に、業績を回復させるための緊急の課題は「これがマツダのクルマだ」というブランドイメージを再構築し、そのイメージを体現する製品で市場における地位を回復することだった。
その使命を果たすための施策がサイクルプランの構築だった。まず、個別モデルごとに商品力を強化する方策を打ち立てることが優先された。
並行して、メーカー本来の仕事である製品の開発作業も続けられていた。その中から生まれたのが、ウォレスの社長就任から2ヵ月後の1996年8月に新規投入されたデミオだ。
デミオは「クルマに必要な機能はこれとこれだけ」といういさぎよい製品の作り方が大いに評価された。そして、国内の自動車ジャーナリスト団体RJCのニューカーオブザイヤーを受賞した。
1990年代前半、ヒット作がなく市場から忘れ去られようとしていたマツダは、このデミオのヒットでぎりぎりなんとか持ちこたえた。
もうひとつ、マツダに復活のきっかけをもたらしたのは新エンジンの開発だった。フォードはグループの各企業に新型のエンジンの開発を競わせた。
それは2010年まで、つまり「開発完了後10年以上にわたって生産し、製品の使用に耐えうる」という条件のついた2リッタークラスの新型エンジンの開発だ。
エンジンはクルマの心臓部であり、最も重要な部品だ。自社の技術にプライドのあるマツダにとっては、この与えられたせっかくのチャンスを、なにがなんでもつかみたいと考えた。
エンジンがフォードに認められれば、マツダのグループ内での存在価値を上げることができる。またこのエンジンがフォードグループの中核エンジンとして採用されれば、年間生産量150万基、供給期間10年と、マツダ1社で使うのとはケタ違いの数字になる見込みだ。
マツダはこの開発競争に勝つ。これはマツダにとってビッグニュースだった。何より、自社の技術力に対する自信を確かな物にしたことが、その後の復活劇の原動力になっていくのだ。
記事提供:藤井 孝一/ビジネス選書&サマリー
